Side-A
慣れた手つきで右ウインカーを出し、左右を確認して、駐車場から公道へと車を出す。時刻は6時20分。いつものように彼は朝の練習に向かう。
彼はサッカーが好きであった。付き合いはもう16年そこらになるであろうか。そして大学に入って、小中高でサッカーをそれなりに真面目に取り組んできたことからその流れで大学でもGK、プレーヤーとして体育会サッカー部にも入った。その一方でとある1ゲームがきっかけで彼は違う願望を持ち続けていた。
2018年、高校3年生の9月。裾野での選手権予選の直前合宿。前半の給水タイムまでは相手の思うがままにボールを保持されていた。暑さとなかなか主導権を握れないジレンマ。そんな中で給水タイムの2分間で守備の仕方を自分主導で変更させた。そこからは自分が設計した守備の網に相手がハマるという構図が眼前で繰り広げられ続けた。もちろん今考えれば自分のおかげではまったくなく、FPの10人の頑張り以外なにものでもないはずであったが、それが彼の成功体験として深く刻まれた。そしてそれは彼自身がシュートを止めることよりも、嬉しく達成感に溢れるものであった。この経験から彼の中に指導者になりたいという淡い願望、のようなものが萌芽した。
時は変わって2021年。彼はサッカー部に入って2年が経った。GKとして過ごした彼は2年目にセカンドキーパーとしてベンチに座るようになった。ベンチに入りながらも出場しない日々。上のカテゴリーのGKを追い落とすことしか考えていなかった高校時代とは違い、とにかく気づいたことを喋り、勝利に貢献しようと考えていた。球際の攻防、ぶつかり合い、崩しの形、DFライン。普段のピッチの中からは見えないものも、見えていたものも解像度を増して、眼に飛び込んできた。テクニカルエリアから見るフットボールはゴールエリアから見るそれよりも何倍も美しく魅惑的に彼の眼には映っていた。そこでの日々は彼に心に灯っていた「指導者になりたい」という思いの炎に油を注いでいった。
シーズンの後半戦に差し掛かろうという時には、彼の中のその炎は練習するモチベーションを蝕むほど大きくなっていた。試合に出ない自分のセービング練習よりも、ゲームに出場する彼らの課題を解決するためにどのようなオーガナイズで練習するのか、そっちを勝手に妄想して舞い上がっている彼自身がいることに気づいた。そして彼は常に「コーチング」、つまり声を出すことを評価され続けていた。指導者という立場は天職のように思えていた。
そして彼はシーズンを終了するととも約15年続けたユニフォームを着て、ゴールマウスに立つことをやめ、スーツを着てピッチの外から檄を飛ばすことを選んだのだった。もちろん15年続けてきたことに対する名残惜しさもあるにはあるだろうが、それよりも彼の中で新しく、そしてあこがれ続けた役職へのワクワクが軽々とそれを超えていったことは想像に難くないだろう。
「目的地周辺です。交通規制に従って走行してください」
聴きなれた音声案内が車内を包む。練習場に到着する彼は、今日の練習メニューと段取りを頭に馳せながら果たして彼の意図したとおりに選手たちはエッセンスを見出してくれるのか、心地よい緊張感、そして今日ももらえるであろう新しい刺激に心を躍らせながら駐車券を取る。強い朝日が差し、思わず目を細めた。
Side-B
彼は今時使っている人はそういない有線のイヤフォンを耳に挿し込み、シャッフルを押し歩き出す。時刻は6時20分。大して好きでもない流行りのJ-POPを聴きながら駅へと足を速め、練習に向かう。
彼はサッカーが好きであった。付き合いはもう16年そこらになるであろうか。そして大学に入って、小中高でサッカーをそれなりに真面目に取り組んできたことからその流れで大学でもGK、プレーヤーとして体育会サッカー部にも入った。その一方で彼は気づき始めてもいた。
彼はプロになるためにサッカーを始めた。憧れたのは青々とした芝の上、大勢の観衆の前で躍動する煌びやかな彼らだ。そしてそれに近道とは言わないが、可能性がなくはないキャリアを歩んできていた。小中高で何度か東京選抜に選ばれ、全国の舞台にも立たせてもらった。たまたまセレクションで調子がよかったり、周りに恵まれたりといった要素がほとんどだが、この実績がなんとなくどこかでまだプロになれるのではないか、ということを心のどこかで期待させていた。しかし実際は客観的に見て、高3の時点で実力的にはとっくにプロという夢がほぼほぼ打ち砕かれているような立場にいた。彼はそのことを直視できなかったし、直視して血の滲むような努力をすることもできなかった。また別の夢や目標をまた考えてそれに努力していくということができるほど大人ではなかった。とにかく白旗を挙げるのをプライドが許さなかった。
そして彼のプレーの特色が「コーチング」であった。というより周りからはそこが評価されていたし、褒められる回数も年々増えていった。もちろん悪い気はしなかった。しかしコーチングはどのポジションの誰でもできることであったし、GK特有のセービングやハイボール、キックであったり、を評価されていないという現実は確実に彼のコンプレックスになっていった。
彼は大学生になった。体育会サッカー部に入った。チームは東京都大学サッカーリーグ2部。その中で1年間1度もベンチに入ることはなかった。まだ彼は小中高の実績を引きずっていた。しかし何物でもない自分を見せつけられ、現実を直視せざるを得なくなった。最後通牒をもらったような気がした。「プロにはなれない」と。なんとなく頭ではわかっていたものが眼前に大きく現れたような感覚だった。目標を失った。この瞬間から徐々にGKとしてプレーする世界は色を失っていった。なんとなく練習に行って、なんとなくアップして、なんとなく大ゲームをする。なんとなく試合に赴き、なんとなく負け、なんとなく悔しいフリをした。何のためにやっているのだろう、そんなことを考えることが増えた。
2年目。ベンチに入ることは叶ったが、スタメンになる望みはほぼなかった。いやそれを目指すバイタリティがなかった。上のカテゴリーのGKを追い落とすことしか考えていなかった高校時代とはえらい違いだ。チームの輪を乱すわけにはいかない、そんな思いからベンチで声を張り上げだした。これがいろんな人に評価してもらえた。それもそうだろう。彼がチームに還元できるバリューは大きな声それ以外はなかったのだから。
そして彼はシーズンを終了するととも約15年続けたユニフォームを着て、ゴールマウスに立つことをやめ、スーツを着てピッチの外から檄を飛ばすことを選んだのだった。彼は常に「コーチング」、つまり声を出すことを評価され続けていた。指導者という立場を天職のように思うようにしていた。
実際は白旗を挙げたのだった。飛んでくる速いシュートから。ゴール前に立つことから。毎日朝早く起きて、最初のキャッチングからこだわることから。チーム内での競争から。コーチング以外の苦手な部分を磨くことから。自分を見つめなおし、「プロになる」以外の新たな目標を見つけることから。サッカー選手としての「彼自身」から。小さいころからの「夢」から。逃避し続けた当然の帰着であった。
「ピッ!ピッ!ピッ!ピッ!ピッ!ピ」
朝のラッシュ時のICカードのタッチ音はメトロノームのように規則正しい。最寄り駅から練習場に歩を進める彼は、今日の練習メニューと段取りを頭に馳せる。果たして作ったメニューで満足のいく練習になるのか、チームは強くなるのか、胃が痛くなるような思いであった。心地よい緊張感なんてものはない。怯えながら隣を過ぎ去っていく後輩に挨拶を返す。強い朝日が差し、思わず顔をゆがめる。
エピローグ
“理想の大道を行き尽して、途上に斃(たお)るる刹那に、わが過去を一瞥のうちに縮め得て初めて合点が行くのである”
これは生前の夏目漱石が遺した言葉である。
どちらの彼もきっと交わることはない。そしてそのあとどういう運命を辿るのか、私は知る由もない。そのなかで彼らは必死に自分の選択は正しいんだと信じるために懸命に毎日を生き抜く。それしかない。決断の正しさなんてものは存在しない。ただ後々振り返って“合点”が行くように闘い続ける。それだけなのだ、、、