こんにちは。
総合人間科学部教育学科4年の松井 健豪です。
匡佑からスナチャでほぼ毎日来てた
「明日の電車の時間送ってくんね」
という連絡が来なくなり引退したんだなあと感じさせられる日々です。
自分で調べずに人に調べさせるあたり匡佑らしさが出まくっております。
そんなことはさておき、引退ブログ始めさせて頂きます。
調子も体力も戻らないまま引退してしまった。
4年間全力でやれば最後はある程度は上手くなっているだろうと思っていたのに現実は残酷だった。
ラストイヤーなのに怪我をしてしまった。
最後の年くらいは怪我せずプレーしたかった。
3ヶ月くらいかけて復帰し、復帰した時には引退まで残り1ヶ月半。その1ヶ月半が4年間で一番調子が悪かったかもしれない。
3年まではAとBを行き来していた。調子が良ければAに行き、調子が悪かったり怪我をしてはまたBに戻ることの繰り返し。
4年は初っ端から調子が悪かった。何が何でも都リーグに出場するという目標を掲げ、覚悟を持っていたのにもかかわらず全く良いプレーができなかった。歴代の先輩も4年の時はラストイヤーだからか今まで以上に調子を上げる人が多かった。でも自分は違った。何なら4年が一番調子が悪かった。これから調子を上げていこうという時に怪我をしてしまった。復帰して調子が上がらずCの試合にも出場した。結局4年でAにいたのも引退まで残り1ヶ月の時にラストチャンスで南出から上げてもらっただけだった。しかし、そのラストチャンスも掴み取ることができなかった。
正直4年間で上手くなれたかわからない。
思い返せば多くのことに悩まされた。
まずは怪我。
下手したら半分くらいの期間はサッカーから離れていたかもしれない。
1年の11月に左膝を怪我した。
2年はその怪我のせいで試合なんてたったの三試合しか出場できなかった。
3年も三分の一くらいは怪我。
そして4年も半分は怪我。
引退ブログで怪我についてつらつらと綴っても何も生まれないので省くが、相当辛かった。
怪我をしてはメンタルがやられ、何とかメンタルを保つために筋トレをし、復帰して体力が戻らないうちにまた怪我をするの繰り返し。
サッカーができない辛さというものを痛いほど味わった。
そして怪我なくサッカーできている期間は結果を残せないことに悩まされた。
3年、4年はBの公式戦であるアイリーグ、Jr.リーグに多く出場させてもらった。
しかし、勝てない試合ばかり。
3年の前期は怪我もなく、ありがたいことに前期のアイリーグの全ての試合に出場させてもらった。しかしチームを一度も勝たせることができなかった。引き分けはおろか全敗だった。
そして4年のJr.リーグも1勝しただけでその他は全部負け。
悲惨すぎる成績。
特に記憶に残っている試合が二試合ある。
一つ目は引退まで残り1ヶ月の時に行われたJr.リーグの成蹊大学との試合である。
この試合が4年間で自分が出場した公式戦で唯一勝利を収めた試合。
しかし、何もできなかった。
前半を1-2で負けている状況で折り返して、自分は後半の頭からの出場だった。何が何でもチームを勝たせたいという気持ちでピッチに立ったが、自分は何も貢献できなかった。3-2で逆転勝利したのに、全く喜べなかった。喜べないのも苦しかった。
せっかく勝ったのに喜べない。
それほど個人の結果が欲しかったんだと思う。
自分にとっては勝利よりも大事だったのかもしれない。
二つ目は大学サッカー最後の試合のJr.リーグ最終節の朝鮮大学との試合である。
試合前に活躍すれば都リーグのメンバーに入れるかもしれないと言われていた。
しかし活躍できなかった。何もできなかった。
その試合は自分を除いてみんな調子が良かった。
4年は最後の試合になる人が多かったから特に気合いが入っていた。
別に自分が何かやらかしたわけでもなかった。
みんな調子が良かったから、普通の自分はいらなかった。
試合中一人でフィールドを彷徨っているような感覚だった。
「あれ?俺いらないんじゃね?」
試合中に思ってはいけないことを思ってしまった。
案の定、前半で交代させられた。
前半で交代したのは自分のみ。
自分が監督でも間違いなく自分を引っ込めた。
納得の交代だった。
でも悔しかった。
ハーフタイムに自然と涙が出てきてしまった。
最後の試合がこんなもんかと。
4年間の集大成がこんなものかと。
特に記憶に残ってる二試合は活躍したかったのに活躍できなかった二試合。
たぶん一生忘れることはない。
今思えば、練習や試合が終わるたびに、「今日もダメだった」と思わない日はなかった。
理想と現実のギャップがあまりにも大きすぎた。存在しない届くはずのない理想像を追い求めていた。自分の実力はこんなもんじゃないと信じて疑わず、現実を受け入れることができなかった。
でも最後の試合後、「今日もダメだった」とは思わなかった。
理想像が消えた。
今のありのままの自分を受け入れ、認めることができた。
4年間頑張った結果の現実だから。
「俺なんてまあこんなもんっしょ」
「たくさん怪我したわりにはよく頑張ったわ」
そう思えたことに何か救われた気がした。
結局、目標だった都リーグには出場できなかった。
後悔の一言に尽きる。
結果だけを見れば散々な4年間だった。
でもなんでだろう。
散々な4年間だったなんて一切思ってない。
上智大学体育会サッカー部で4年間サッカーができて本当によかった。
尊敬していた羽藤が上智大学体育会サッカー部に入部したことを浪人中に知り、中高6年間サッカーに向き合えなかった後悔から、次こそは真剣に向き合おうと思い、上智大学を目指して本当によかった。
結果を残すことができなかったのに心の底から本気でそう思う。
なぜなら、上智大学体育会サッカー部での日々がかけがえのないものであったから。
中高と周りがあまりやる気のない(もちろん自分も)環境にいた自分にとっては新鮮な日々だった。
周りは本気でサッカーが上手くなりたいと思う人ばかり。
だから自分も上手くなりたいと思えた。
こんなに上手くなりたいと思えたのは恥ずかしながら大学に入ってからが初めてだった。
上手くなりたい、結果を残したい、その想いで来る日も来る日も真剣にサッカーに向き合い、上手くいかなくても逃げずにもがき続けた。
結果を残すために必死だったこの過程がかけがえのないものだった。
中高6年間真剣にサッカーに向き合えなかったし、大学では多くの怪我をしたし、サッカーが下手な自分とも決別できなかったし、そして結果も残せなかったから後悔の残るサッカー人生になってしまった。
それでも、その後悔も含め、この4年間のおかげで納得のいくサッカー人生を締めくくることができた。
だからいつかこの後悔ですら良い思い出になるだろう。
決して誇れるサッカー人生ではなかったけど、
サッカーに出会い、そしてここまで続けてきて本当に本当によかった。
サッカー今までありがとう。
最後に
後輩へ
伝えたいことはただ一つ。納得して引退してほしい。
スポーツ推薦もないし、入部する時にセレクションもないこの部活だから他の強豪校とかとは違ってみんながプロになりたいみたいな何か共通の目標を持つことは難しいかもしれない。
だけど、誰でも納得して引退することはできると思う。自分の目標が都リーグ出場であっただけで、みんながみんな同じ目標とは限らない。こんなこと言っていいかわからないけど、都リーグ出場を絶対目指さないといけないとは思わない。でも体育会である以上、何かしら自分の目標を持ち、日々全力でサッカーに向き合う義務はあると思う。たとえ目標を達成できなくても目標を達成するために日々全力でサッカーに向き合ったその過程が財産となり、引退する時に上智大学体育会サッカー部に入ってよかったと思えるはず。それが納得のいく終わり方だと思う。
応援してます。がんばれ!
トレーナーの方々へ
怪我をするたびたくさんお世話になりました。
間違いなく部員の中でお世話になったランキング上位だったと思います。それほど感謝の気持ちも大きいです。トレーナーの方々がいなければもっと治りが遅かった怪我もありました。
支えて下さり本当にありがとうございました。
もう怪我しません!
マネージャーへ
毎日毎日テーピングとアイシングありがとうございました。右足首、左足首と二人がかりでテーピングをやってもらうこともあって本当にご迷惑をおかけしました。マネージャーのおかげで何とか最後までやり切ることができました。
またいつかテーピングとアイシングお願いします!
同期へ
こんなにキャラが濃いやつらが集まる代は後にも先にもないと思う。いつもはめちゃくちゃふざけてるのにサッカーになれば目の色を変えて真剣に取り組むやつばかりで本当に同期に恵まれたと思ってます。
みんなとサッカーできたことは一生の財産です。
またみんなで集まってサッカーしたり、飲みに行ったりしましょう。
4年間本当にありがとう!
両親へ
中学から試合観戦に来ようとするといつも拒否ってすみませんでした。下手くそな自分を受け入れられず、そんな下手くそな姿を見せたくありませんでした。だから大学では活躍する姿を見せたかったのですが、叶えることができませんでした。実力不足です。
サッカー人生の一番の後悔は小学生みたいに活躍する姿をもう一度二人に見せられなかったことです。
幼稚園から大学までのサッカー人生を支え、見守って下さり本当にありがとうございました。感謝しています。
これからもどうぞよろしくお願いします。
次のブログは、間違いなく誰よりも真剣にサッカーに向き合い、誰よりも熱い男、星野 航太です。
一緒に試合に出るといつも自分より良いプレーをするので、いつも嫉妬させられていました。
最後まで届きませんでしたが自分にとっての目標でありライバルでした。
背番号決めの際に少し?いや、かなり?揉めたことは今となっては良い思い出です。
きっと感動する引退ブログを書いてくれるでしょう!