「なんでサッカー部にいるんだろう」
「なんで選手としてやってるんだろう」
シーズンオフにふと思い浮かぶこの問いかけ。
この問いが、最近頻繁に繰り返される。
気づいたらその思考、自分でもなぜかはっきりとはわからない。21歳になり、人生的にいろいろ考える時期なのか。未だにこの問いに対してこれだという答えが出ていないからなのか。
とりあえず、一度考え出すとかなり長い間考え込んでしまう。
同期の田崎は、選手を辞めるという決断をし、部に対してトレーナーという立場で貢献する道を選んだ。同期の南出は、学生監督という立場で部に最大限コミットする道を選んだ。自分に対して、組織に対して、深く分析し、何を選択するのがベストなのかを考え抜いた末の結果なのは間違いないと思う。
では果たして、今自分はこの部にどうやって関わるのがベストなのだろう、そんなことをここ数ヶ月悩んでいた。
一選手として与える影響力より、自分も選手を辞めて、部をマネジメントした方がいいのだろうかとか、第三者的な位置からアプローチした方がいいのかとか、色んな思考が駆け巡った。
自分がサッカーをなぜ部活でやっているのか、大学スポーツを真剣にやっている人なら誰でも問うであろう、ど定番の問いだが、その問いに対して、今回の部員ブログで究極的に突き詰めたつもりである。
好きだから、楽しいから、勝ちたいから、上手くなりたいから、行き着く先は結局そこらへんなのかと思っていたが、思考を重ねた結果、もっと深いものが見えてきた。大学3年生のこの時期、退部という決断をするチームメイトも出てきた中で、自分自身でこの問いの答えを明確にしないと、部活での毎日が薄いものになってしまうという危機感も生まれてきたところだった。
今回は、今自分の中で出たその答えをなんとか言語化して、この場をお借りし、書かせていただきたい。
今年4月、3年生になり、来年の最高学年に向けて部をどうしていくべきか色々考えを巡らせていた。どういう組織体制にするのがベストで、どういう方向性にし、今部に足りないものは何なのだろうか。挙げたらキリはないが、もう出なくなるというところまで洗い出し、どうにか来年良い方向にもってきたいと勝手に模索していた。
5月になると、来年の体制に対して早く話し始める分に越したことはないという結論が同期の間で出て、徐々にミーティングが始まった。
まず、誰にミーティングに参加してもらうかというとこから話し合い、今年の理念や幹部をどうしていくか議論をし、8月まで来た。まだまだ話し合いの途中で、全体として出ている結論は少ない。
これまで、上智大学体育会サッカー部はどういう性質があって、何が魅力で、何が足りなくてといったことを考え、行動してきた。そして、それは単なる努力ではなくて、考えることが楽しくて、面白くて、日々過ごしてきただけである。最高学年になった時、何をどうしていくか、そこへのワクワク感も大きかった。
しかし、それと同時に、自分が最高学年になってできることの限界も感じたのも事実である。何かを生み出すことより、組織として1番良い状態、部員一人一人が部にいることに充実できる環境をつくり、組織として機能することが最優先になるのかなと、徐々に思い出した。
また、組織を部員個々人の感情レベルで掘り下げると、意外と部員のみんなはサッカーを今まで通りやれていればいいのかなという思考も回り始めた。
主に、オフザピッチに重きを置いてこれまで動いてきたが、意外と周りのみんなはそんなに求めてないのかなとか、自分ではオフザピッチに対する考えをオンザピッチでの本気度のレベル感まで上げたら、もっとこの組織良くなるのにとは考えているけどそこまでする必要ないのかなとか、色んな思考が出てきて、迷走状態に陥った。
今までの部としてのいらない文化は排除し、サッカーだけではない何かを質高くかつより多く生み出していけば、もっと高校生や新入生が魅力をもち、上智大学体育会サッカー部の輝かしい未来を創造していけるのにと個人的には思っていても、そこを求めて入ってきてない部員には強制できないとも強く感じていた。
そんなことを考えている内に、ますます、自分は何がしたいのか、何をするべきなのか、なんで部活にいるのか、よく分からなくなってきた。
数週間前、同期の三井が僕に言った。
「おれは大陽が抜けて(スペイン4部のチームでトライアウト中)、練習の質を上げるために引っ張っていかないとという思いの方が強くて、組織どうこうのことはあんまり今は考えられていない」と。
自分と向き合うことを忘れていたと痛感した。組織について考えると同時に、大事な自分をどこかで見失いそうになっていたことに気付いた。
同期の神田に言われた、
「ピッチ内でのレベルが下がっている」と。
それもまさにそうだった。1、2年生の時、自分を試合に出せと露骨に表すくらいの気持ちでサッカーをしていたあの気持ちを忘れかけていた。スタメンで出てもフルで出れないことにすら憤っていた1、2年生の時と比べ、今は全体を見過ぎて、自分が出なくて勝つならそれでいいと思うようになっていた。捉え方によっては、心が広くなったといったポジティブな面もあるだろうが、サッカーで常に上を目指す最大の軸が薄れかけている現状だろう。もう一度、ピッチ内で覚悟を持った自分を取り戻さないといけないことを教えてくれた。
同期の高野に言われた、
「『嫌われる勇気』を一回読め」と。
その本で語られる他者の人生に生きるなというメッセージもまた、組織に対して悩み、自分を見失いかけていた自分に対して、大きく心に響くものだった。
組織に対してロジカルに考えることは良いが、それが故にピッチ内で良い意味で感情的に熱くプレーすることを失っていた。本気でサッカーをしたくて部活に入ってるのは自分でも分かっている、分かっているからこそ、それから目を逸らし、当たり前だと思い、実は出来ていない現象が起こっていた。
ピッチ外を考えすぎて、本気で向き合うところの優先順位が完全に崩れ、日々部活で過ごす時間を無駄にしていたと痛感した。
もう一度この2つの問いに戻る。
「なんでサッカー部にいるのか」
「なんで選手としてやっているのか」
その答えは、部活の全てのモーメントにある。逆にいうと、これというものは僕にはない。
毎日、サッカーが大好きな皆と会って、話せること。
いじって、いじられ、笑い合うこと。
幹部を決めるミーティングで、自分のダメなところをストレートに言ってくれること。
カテゴリー問わず、大学のプライドを懸けてピッチに立つこと。
11人の男と男の勝負ができること。
一個のボールを相手ゴールにねじ込み、
自陣のゴールを必死に守る。
一見単純に見えて、そこに至るまでのプロセスが複雑かつ不規則で、何が起こるか分からないこと。
時にチームメイトとぶつかって、励まし合って、辛さも、悔しさも、嬉しさも、全て共にすること。
試合が終わったら、みんなで飯に行くこと。
組織に対してみんなで考えを巡らすこと。
学生の組織だから、なんでも出来ること。
挙げたらキリがないが、、。
こんな経験、どこでできるか。
こんな日々がどこにあるのだろうか。
サッカーを超えたこれらの経験は、もはや今後一生手に入らないだろう。
僕が大学サッカーをやる理由は、間違いなく論理を超えた感情にある。もっというと、感情体験をずっとできる刹那にある。
自分が悩んでいたその答えは、実は1番近くにあった。手を伸ばさなくても、既にあるものだった。組織どうこう、ましてや自分どうこう考えなくても、”あるもの”だった。
大切なことは意外とすぐ近くにある。
(だから見失いやすい。)
来年の都リーグ1部最終節。
勝っても、負けても、みんなで泣きたい。
それが僕の学生サッカー最後の望みであり、
ゴールなのかもしれない。
そのために、もう一度、自分のサッカーに対する覚悟を奮い立たせ、こんな素晴らしい環境を整えてくれた上智大学体育会サッカー部の組織面においても最善を尽くしたい。
1日1日の幸せを噛み締めよう。
つい最近、心に誓った。
次回は、國學院久我山高出身の、生粋のサッカー好きのイメージがある宮崎雅ちゃんです!