[在部当時のこと]

1971年4月に上智に入学し、新学期に四谷キャンパスに向かうより早く秦野の春合宿に参加しました。関東大学サッカーリーグ2部所属と聞いて「1部じゃないんだぁ」くらいの感覚でいたため、練習に向かう選手たちの真剣さに驚かされました。また、優秀な選手も多く、高校のレベル(速さ、強さ等)との大きな差に戸惑う合宿でもありました。

サッカー部にはOBから選ばれた監督はいたものの、1部のような専門のコーチなどは存在せず、基本的には学生主体で運営することが当然の時代でした。部員の中から「グランドマネージャー」が選出され、彼は幹部の立案した計画に従い、ピッチ上での練習をコーディネートする現在のコーチのような役割を担っていました。この当時、各学年の部員数は5~7名ぐらいで、総勢25~30名程度の所帯。私の一年次に、部が始まって初の女子マネージャー「あっこさん」がおり、今でいうマネジメントに存在感を発揮していました。

この時代、「上南戦」は負け知らずで、リーグが秋季にしかないこともあり、春季のハイライトは名古屋を本拠地とする南山大学との公式試合でした。70年を過ぎたあたりから南山サッカーのレベルが上がり、拮抗したゲームとなったのを覚えています。ちなみに、私が3年次に初の引き分けを演じ、先輩諸兄にお目玉を喰らいました。春の上南戦の結果をそのまま引きずったのか、残念なことに同年秋に関東2部から東京都リーグに降格してしまいました。

私が4年で主将になったときの衝撃は今でも忘れることができません。それは、主将になったことではなく、新監督となった鶴岡OBから「君たちの代は14名の選手が残っているが、その理由は練習が甘かったからだ!」と宣告されたからです。咄嗟に強い反発を覚えましたが、それでもこの人について行けば1部復帰に希望が持てるとあって、監督の指示の下で必死に練習・合宿に打ち込みました。残念なことに、入れ替え戦まであと一歩の試合で、年々力をつけてきた駒澤大学に0-1(東大御殿下グラウンド)で惜敗し、夢の実現はなりませんでした。

 [現役に望むところ]

私が上智でサッカーに向かっていた時代は、まさにサッカーが「マイナースポーツ」からようやく脱皮する転換期でした。それにひきかえ現在は日本の「ポピュラースポーツ」を野球と2分するほどにサッカー人気が上昇しました。そのためでしょうか、部員も70名を越える大所帯となり、練習場所の確保に頭を悩ますことになっています。

これまでしばらくは、OBの監督に加えて外部コーチ(有給)が指導を担ってきましたが、思ったような効果は上がらず―潜在的効果はあったのでしょうが―再度学生主体のクラブ運営に切り替え、昨年度16年ぶりの東京都リーグ1部復帰を果たしました。

いまや大学スポーツも「ビジネス化」の流れに呑み込まれる時代となってきました。一部のスポーツ強豪大学に限られるのでしょうが、そこでは大きなマネーが動き、選手はサッカー市場の商品価値で計られる存在となります。これはあきらかに米国モデルの大学スポーツですが、上智大学体育会サッカー部はこの潮流の中でどのようなスタイルを模索するべきでしょうか。

私はあくまで純粋な「大学スポーツ」、つまり学生のための、学生による、学生のサッカー運営であってほしいと考えています。今後、多くの大学は「上智モデル」を参照して、サッカーをスポーツとして―陳腐なマネーゲームに堕することなく―楽しみ、学生たちがサッカーとクラブづくりに主体的にかかわり、「スポーツ的自立」とは何かを身をもって体験し、自立した個人として社会に巣立っていく土壌を守り抜いてほしいと願っています。